二条城の歴史をひと目で
二条城の歴史は、徳川家康が京都での将軍の居城として築いたことから始まります。1601年に西国の大名へ築城が命じられ、1603年に完成しました。のちに火災で天守と以前の本丸御殿を失い、1867年にはここで政権が天皇へ返されました。そのあと離宮になり、現在は京都市の所有です。
それぞれの時代の痕跡は、今も城内で見られます。年代の流れをつかんでおくと、二の丸御殿や本丸御殿を歩くときに、目の前の建物がどの時代のものなのかを意識しやすくなります。狩野派の障壁画で知られる二の丸御殿から、皇室の御殿の建物を用いた本丸御殿まで、順に見ていきましょう。

徳川家康が築いた城
1601年と1603年、帝都に置かれた将軍の拠点です。
家康は1601年に築城を命じ、城は1603年に完成して使われ始めました。以後、徳川将軍が京都で過ごす居城になりました。京都に置かれた将軍の拠点として築かれた、この城の出発点にあたる時代です。訪れる人の身分を反映した、控えの間から謁見の間へと続く部屋の並びは、二の丸御殿のページで説明しています。
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1626年の行幸
城のすがたを決めた5日間です。
1624年から1626年にかけて、城は1626年9月の天皇の5日間の行幸に向けて拡張されました。二代将軍の秀忠と三代将軍の家光の時代にあたります。狩野派の絵師たちが新しい壁画や襖絵を描き、建物も加えられました。朝廷とのつながりはそれ以前から深く、1620年には秀忠の娘の徳川和子が後水尾天皇の后になっています。
2026年は、この行幸から400年にあたります。2026年12月6日には行列の再現が予定され、この日の二条城の入城は12時までです。朝廷の側の歴史は京都御所のページでも読めます。
1750年と1788年の火災
何が失われ、なぜ今の本丸御殿の姿になったのかを見ます。
1750年には、天守が落雷で焼失しました。1788年には大火により、当時の本丸御殿が焼け落ちました。このため、現在見学できる本丸御殿は、築城当初のままの建物ではありません。今の建物はのちに加わったもので、その経緯は下の項目にあります。見学の流れは本丸御殿のページで説明しています。
1867年、大広間の大政奉還
将軍の時代が終わりました。
1867年、15代将軍の徳川慶喜は、二の丸御殿の大広間で、政権を天皇に返す意思を示しました。これが大政奉還です。大広間は正式な謁見の場でした。将軍の権威を示すはずの部屋が、その権威を手放す場所になったのです。
離宮から京都市の所有へ
1884年、1893年から1894年、1915年、1939年です。
1884年に、城は皇室の離宮「二条離宮」になりました。1893年から1894年にかけて桂宮御殿の建物が本丸へ移され、これが現在の本丸御殿で、重要文化財に指定されています。1915年には大正天皇の即位を祝う宴が開かれ、南門が建てられました。1939年に城は京都市へ下賜され、現在は市が管理しています。
二条城の基礎知識
広さ、建物、世界遺産としての位置づけです。
城の面積は275,000平方メートルで、外周は約2キロメートルです。東西の幅は約600メートル、南北は約400メートルあります。二の丸御殿は書院造の6棟がつながった建物で、国宝に指定されています。
1994年からは、世界遺産「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」の一部で、登録基準は(ii)と(iv)です。構成資産は17件あり、二条城はそのうちの城です。堀と石垣に囲まれた広い敷地と、国宝の御殿、そして世界遺産という三つの面を持っているのが、現在の二条城です。見学の計画には、入城料をまとめたチケットのページが役立ちます。
二条城の歴史:よくある質問
二条城を築いたのは誰ですか。
徳川家康が1601年に築城を命じ、1603年に京都での将軍の居城として完成しました。その後の将軍たちが、1626年の行幸に向けて城を拡張しています。
1867年に二条城で何がありましたか。
15代将軍の徳川慶喜が、二の丸御殿の大広間で、政権を天皇に返す意思を示しました。これを大政奉還といいます。
二条城はなぜ世界遺産なのですか。
「古都京都の文化財」の17の構成資産のひとつで、1994年に登録基準(ii)と(iv)でユネスコに登録されました。
本丸御殿は城と同じ年代の建物ですか。
いいえ。1788年の火災で以前の本丸御殿は焼け、現在の御殿には1893年から1894年に桂宮御殿から移された建物が含まれます。

